昔のとうもろこし
最初に断っておくが、写真は「昔のとうもろこし」ではない。4〜5年前に種屋さんの店頭にあった「ウッディコーン」という品種である。しかし、去年あたりからは見かけなくなった。いろいろ探し回って見つけたので今年はこの品種を栽培している。
今のとうもろこしはF1(一代雑種)なので、種を残して翌年育てても、親と同じものが育つわけではない。ご先祖の形質が現れてどんなものができるかわからない。美味しければそれでもいいが、デントコーン(飼料用とうもろこし)のようなものができたらひと夏の努力がむなしい。
そこで、しょうがなく美味しそうな品種の種を毎年購入しては育て、秋に食べてみてがっかりするという繰り返しである。そのなかでもマシな(といっては失礼だが)品種が写真のこれ、というわけである。
最近のとうもろこしはそんなにまずいのかというと、そもそも味覚とは千差万別であって、まったく独りよがりなものであるので、偉そうにうまいまずいと評価すること自体がまずいのかもしれない。
そもそも、千差万別の味覚は何によって形成されたのだろうか。
私の味覚は子供のときに食べたとうもろこしの味。縁日でしょうゆを塗って焼いた硬いやつの味。祖父母の畑でもいできて食べたときの味。そんな記憶が舌に残っているのであろう。
それに比べていまどきのとうもろこしは、歯ごたえがない、甘すぎる、何でも生で食えるというのを売りにしているヤツもあるとか・・そのうち、マヨネーズで食べるとうもろこしが出てこないとも限らない。
そういえば、とうもろこしだけじゃなかった。大根はいつしか青首の甘いやつしかみかけないし、にんじんからはニンジン臭が消えている。これらもマユネーズをかけるとうまい野菜ってことなのかな。
昔のとうもろこし(祖母が種をとっていたからF1じゃなかった)が食べたいという想いは、決してノスタルジーではなくて、ステレオタイプの生産、流通に対する抵抗なのかもしれない。
千差万別の素の野菜とその旨さを供給することが、多様な人々や文化が共存できる社会を創ることにつながると真面目に思っている。
記:ポテトファーマーズ 2004-9-5
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